こんにちは。ピアノ研究家のみきです。
日本の文化には、茶道や華道、書道、剣道や弓道など、〝道〟と名のつくものが多くあります。
どうして〝道〟なのか?
そう考えたとき、単に技を習得して磨くだけでなく、日々修練することを通して、自分自身の在り方や生きる姿勢を整えることを、日本人は大切にしてきたからではないかと思いました。
現代のものごとに置き換えると、たとえばわたしの活動のひとつに、「音楽家が音楽で生きていくための、ビジネスを教えること」があります。
ビジネスをやる以上、お金を稼がないといけないし、お客さんである音楽家の方々にも、稼げるようになってもらわないといけない。
でも稼ぐためのノウハウ(術)ばかりを磨いて、お金を稼げるようになっても、それを使う人の器(=道)がなければ、一時的にはうまくいっても、散財してしまったり、自分の欲のためだけに使ってしまったり…
と次第にお金に囚われて、本当に大切なものを、見失ってしまうことになります。
どんなときも、技や術を制して、自分自身を律するために「道」はすごく必要な要素となる。
ピアノを弾くことも、文章を書くことも、ビジネスをすることも。
そこには必ず「道」があります。
わたしは今でこそ、「ピアノ研究家」を名乗っていますが、最初からその道が見えていたわけではありません。
もともと大学を卒業したら、一般企業に就職しようと考えていたので、音楽系大学院を修了後は会社員になりました。
けれど、会社員としての生活は想像していたのとは違っていて、「会社ばかりの人生にはしたくない!」と演奏活動をするようになりました。
そのときは会社員ピアニストを目指して、ピアノコンクールに挑戦して上位入賞したり。
中途半端に会社員をしてると思われたくなくて、寝る時間を削って、日商簿記2級などの資格を取って。
「会社員しながら演奏活動してます!」ととにかく必死でした。
その後、結婚を機に会社員を辞めることになって、わたしがやりたかったのは、会社員ピアニストになることではなかったと気づきます。
結婚してからは、大学研究所での仕事と主婦業と演奏活動の3本立て。
時間が足りなくて、「人に雇われない働き方」を求めて、自分でビジネスをやってみようと考えました。
ビジネスの世界はおもしろくて、「わたしがなりたかったのは起業家ピアニストだったんだ!」と、ビジネスの世界にどんどん浸かっていきました。
ビジネスの世界に浸かるほど、ピアノから気持ちが離れていく自分がいて。
それにふと気づいたとき、起業家ピアニストを目指すことも辞めました。
結局わたしはピアノが大好きで、死ぬまでずっとピアノを続けたくて。
でも、自分の力で生きていけるだけのお金は稼ぎたい。
ただそれだけのことだった。
いろいろ遠回りしましたが、目の前のことにただひたすら夢中で向き合って、「いまこの瞬間」に意識を向けていたら、自分だけの「道」がひらけてくる。
そんなふうに思うのです。
「道」というのは最初から完璧な形で、存在しているわけではない。
ピアノが、文章が、ビジネスが、自分を知り、こころを整えるきっかけになって、その積み重ねによって「道」がつくられていくのです。
けれど、ピアノを演奏するとき、自分自身の身体の動きや、今そこにある空間すべてのものに五感を研ぎ澄ませてみると、意外と身体がうまく使えていなかったり、雑念が沸いてきたりして。
毎日ピアノと向き合っているようで、全然向き合えていなかったことに気づかされるのです。
向き合っているのに向き合えていない。
そうなってしまうのは、意識が「いまこの瞬間」に向いていないからなんです。
わたしが会社員ピアニストや、起業家ピアニストを目指していたとき、過去や未来に意識が向いていることが多かったです。
地元で活躍している演奏家や、大きなコンクールに入賞して話題になった演奏家を見るたびに、
- もし子どものころから音楽の英才教育を受けていたら
- もっといろんな人と気軽に付き合える性格だったら
- 会社員にならずに音楽の道に進んでいれば
そんなふうに、過去の自分を後悔してしまう。
その一方で、起業家として成功して、演奏活動をもっと本格的にして、唯一無二の存在になりたいなどと考えて、いま目の前にあることではなく、未来にばかり意識が向いていたこともありました。
そのときのわたしは、会社員ピアニストになること、起業家ピアニストになることばかりに意識が向いていて、自分自身の在り方や、生きる姿勢を整えることにまで、目を向けることができなかったのです。
けれど、「いまこの瞬間」にある自分の本心に気づいたら、「ピアノ研究家」という道が見えてきました。
「ピアノ」という軸を通して、意識を「いまこの瞬間」に戻す。
その積み重ねが、ピアノ研究家という〝道〟になっていくのかなと思います。
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